周泰

周泰
清代の書物に描かれた周泰
代の書物に描かれた周泰

漢中太守・奮威将軍・陵陽侯
出生 生年不明
揚州九江郡下蔡県
死去 黄武元年(222年)?
拼音 Zhōu Tài
幼平
主君 孫策孫権
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周 泰(しゅう たい)は、中国後漢末から三国時代の武将。呉に仕えた。字は幼平。揚州九江郡下蔡県の人。子は周邵・周承。兄が数名いる[注 1]

生涯

蔣欽とともに孫策に仕え、左右となる。建安元年(196年)、孫策が会稽郡に進出すると、別部司馬となった。

孫策の弟の孫権は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。建安2年(197年)、孫策が六県の山越征伐に赴き、孫権が丹陽の宣城に住んでいる。以前、孫策は江東を平定すると袁胤を駆逐した。袁術は孫策を深く怨み、陰かに間者を遣って印綬を丹陽の宗帥である陵陽の祖郎らに与え、山越を煽動して大いに手勢を合せ、共に孫策勢力を攻囲させた(「孫輔伝」)。兵が少なく油断し切っていたところを、山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12カ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。戦後しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀県長に任命された。

建安4年(199年)、皖城や江夏の攻撃に参加し、帰還中に豫章に立ち寄ったとき、宜春県長に任命された。任地における租税を扶持として与えられる待遇を受けた。

孫権の時代になると、江夏の黄祖討伐で功績を挙げたのを始め、赤壁の戦い周瑜程普に随って、曹操の攻撃を防ぎ、南郡の曹仁攻撃にも参加した。

建安22年(217年)、濡須口では攻めてきた曹操軍に対して再度攻撃し、曹操軍を撃退させた。戦い後、功績により周泰は平虜将軍に昇進し、蔣欽の後を継いで濡須督となった。孫権が周泰を濡須塢に駐屯させた。この頃、徐盛朱然といった面々は周泰の指揮下に入っていたが、周泰の下に置かれることを徐盛・朱然の二人共不満に思っていた。孫権は諸将を集めて濡須塢で宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、最後に「私が今在るのは、君のおかげだ」と言い、涙を流して感謝した。この事があってから、徐盛達は周泰の指揮下に入ることを納得するようになった。孫権は更に周泰に対し御蓋を与えるなど、目に見える厚遇を施した[注 2]

孫権が劉備と対立し、その将軍関羽を滅ぼして荊州を手中にすると、さらに蜀漢との戦争に備える様になる。このときに周泰は漢中太守、奮威将軍を任じられ、陵陽侯に封じられた。

夷陵の戦い直後に、周泰は動揺せず濡須を堅守した。魏軍は横江を渡り、同時に別働隊が居巣を攻撃した。これを見た周泰が濡須を固守して敵と戦い、魏軍を撃退した。

黄武元年(222年)に亡くなった[注 3]

子の周邵が跡を継いだが、黄龍2年(230年)に没し、その弟の周承が爵位を継承している。

三国志演義

小説『三国志演義』では蔣欽と共に江賊をしていたとされる。弟に周平(架空人物)がいる。韓当とペアで行動することが多い。

孫堅の遺児が挙兵したのを聞きつけ改心して孫策の陣営に駆けつけ、その後の孫策の江東征服戦の各所で活躍した。宣城で重傷を負ったときは華佗が周泰の傷を治療したことになっている。

赤壁の戦いの緒戦では韓当と共に先陣を務め、韓当とともに元袁紹の部下の張南を斬り、焦触を討ち取っている。赤壁の追撃戦においては、韓当と共に文聘を打ち負かした。南郡の戦いでは、曹洪は韓当との一騎討ちで敗れた後、曹仁は出陣して呉軍を迎撃し、周泰との一騎討ちで敗れ倒れる。劉備が孫夫人との婚礼のために呉を訪れたときは、張昭のすすめで孫権より追撃の任務を蔣欽と共に与えられ、場合によっては夫婦ともども切り捨ててもよいという厳命を受けている。

濡須口の戦いでは、韓当と共に許褚を攻撃し、許褚と一騎討ちをして引き分けて、許褚は辛くも曹操を救い出した。第二回濡須口の戦いでは、孫権は周泰に命じて奇襲を仕掛けて帰ってきた甘寧100人を迎える。曹操は許褚に命じて孫権の大軍を分割させ、曹操軍の張遼・徐晃・龐徳・李典に攻撃されて窮地に追い込まれた孫権をまたもや傷だらけになりながらも救出している。さらに、この時は乱戦の中にいる徐盛も救出に成功している[注 4]

関羽の報復として劉備が攻め寄せた夷陵の戦いでは韓当とともに出陣し、劉備本隊と対峙する。韓当麾下の夏恂張苞に敗北しそうになると、周泰の弟の周平が救援に出たが関興に討ち取られる。後に陸遜が指揮を執るようになると、古参の将の一人として韓当と共に不快感を示し、陸遜に叱責されている。陸遜の計略で呉が大勝すると、敗走する蜀軍を諸将と共に追撃し、周泰は武陵蛮の将で先に甘寧を戦死させていた沙摩柯一騎討ちで討ち取っている。

脚注

注釈

  1. ^ 「幼」の文字は末子・末弟の字に使われることが多い
  2. ^ 親しく字で呼びかけ、宴会の後では軍楽隊の演奏で周泰を見送ったともある(『江表伝』)。
  3. ^ 朱桓が周泰の後を受けて濡須の督となっており、黄武2年(223年)の曹仁との戦いでの功績で朱桓が奮威将軍に任命されている(「朱桓伝」)。
  4. ^ 正史では、孫権と徐盛は窮地に陥ることはない、逆に曹操は孫権に包囲されて多くの犠牲を出し、敗走した。また217年濡須戦では周泰の二度目攻撃により曹操軍を撃退に成功し、濡須の守りも任される。

出典


陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝
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