松平忠喬

曖昧さ回避 松平忠堯」あるいは「松平忠隆」とは別人です。
 
凡例
松平忠喬
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 天和3年1月9日(1683年2月5日
死没 宝暦6年2月5日(1756年3月5日
改名 倶武(初名)[1]→忠喬
別名 勝千代[1](幼名)、与七郎[1]
神号 波奈久波志佐久良命[注釈 1]
戒名 霊台院殿仁誉興徳道融大居士[3]
墓所 兵庫県尼崎市の深正院[1][4][3]
官位 従五位下従四位下遠江守石見守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
信濃飯山藩主→遠江掛川藩主→摂津尼崎藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠継、母:本多康将の娘
兄弟 忠敏、忠喬永井直圓正室、菅沼定易正室
正室戸田忠真の娘
側室:岩崎氏、土屋氏
忠名、忠義、喜連川茂氏正室、雲鏡院、松平親純正室、秋江院、安部信平正室
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松平 忠喬(まつだいら ただたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名桜井松平家10代当主[2]信濃国飯山藩第2代藩主、のち遠江国掛川藩主を経て、1711年に摂津国尼崎藩主となった。以後桜井松平家は7代160年間にわたって尼崎を治め、廃藩置県まで続く[3]

生涯

飯山藩世嗣松平忠継(藩主松平忠倶の子)の二男として誕生[1]。『寛政重修諸家譜』によれば天和2年(1682年)生まれである[1]が、家臣の家に伝わる史料では天和3年(1683年)1月9日生まれと記録されており[5]、幕府には実年齢より年長に届けられたとみられる[5]官年参照)。

元禄7年(1694年)12月、父の忠継は病気を理由として廃嫡された[1]。忠喬の兄・忠敏が飯山藩の世嗣になり、元禄8年(1695年)2月には祖父を継ぐべき「嫡孫」として幕府に認められたが、同年12月に24歳で早世した[1]。このため忠喬に世嗣の座が回ってきたが、元禄9年(1696年)5月26日に大坂加番を務めていた祖父が任地大坂で死去し[1]、7月25日に忠喬が15歳(公式年齢)で藩主を継ぐこととなった[1]。ただし、将軍への御目見や世嗣としての任官をすませていなかったために[5]、7月28日に綱吉に御目見し、家督相続を謝している[1][5]。この際、綱吉に父の遺品の越中則重の刀、御台所に一条冬良筆の『古今和歌集』、桂昌院に足利義政筆の『和漢朗詠集』をそれぞれ献上した[1]。12月22日、従五位下遠江守に任官[1]

大名となった松平忠喬はほとんどを江戸で過ごしており、初の領地(飯山)入りは元禄13年(1700年)のことであった[5][1]。江戸滞在中には将軍の外出への供奉や、各種の普請、西之丸大手御門番などの役を務めた[5]。また幕命により朝鮮通信使の接待役、日光東照宮の警護役なども務めている。

宝永3年(1706年)1月28日、遠江掛川藩に移封される[1]。宝永8年(1711年)2月11日に摂津尼崎藩に移封された[1]。尼崎藩主となった桜井松平家の菩提寺となる深正院(尼崎市大物町)は、正徳元年(1711年)に忠喬が尼崎に建立したと伝えられ[6]、寺の名は大坂で死去した祖父・忠倶の法名の院号にちなむ[6]

享保2年(1717年)1月22日の大火(小石川馬場火事)に際しては、防火の任務を与えられていたために自ら家臣を指揮し、のちに家臣が老中に呼ばれて労を賞されている[1]。寛延3年(1750年)12月18日、従四位下に昇叙[1](桜井松平家で唯一の事例[5])。寛延4年/宝暦元年(1751年)3月20日に致仕[1]。同21日に石見守に遷る[1]

家督は次男・忠名が継いだ。宝暦6年(1756年)2月5日、尼崎において死去した[1]。74歳没[7](「公式年齢」で75歳[1])。深正院に葬られた[1]

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[8]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

補足

  • 継嗣となった松平忠名は、『寛政譜』では正室戸田氏の所生(「母は二女におなじ」[1])とされているが、『図説 尼崎の歴史』では側室の所生とする[5]岩城卓二は、忠喬の「正室の子とわかるのは女子3人です」とし、「側室の子が当主になるのは決して珍しいことではありませんでしたが、幕府に提出する公式記録などでは側室ではなく正室の子として記録されていることも少なくありません」としている[5]

脚注

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注釈

  1. ^ はなくはしさくらのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[2]
  2. ^ 「母は上におなじ」[1]
  3. ^ 「母は上におなじ」[9]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.29。
  2. ^ a b “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  3. ^ a b c 山下幸子. “松平忠喬”. Web版 尼崎地域史事典. 2021年11月27日閲覧。
  4. ^ “尼崎藩主であった戸田家・青山家・(桜井)松平家3家・歴代12人の墓所を調べたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年11月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
  6. ^ a b “じんしょういん/深正院”. Web版 新纂浄土宗大辞典. 2021年11月25日閲覧。
  7. ^ “松平忠喬”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年11月27日閲覧。
  8. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.29-30。
  9. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.30。

参考文献

  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

関連項目

外部リンク

  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus『松平忠喬』 - コトバンク
桜井松平氏当主
松平郷 信広 長勝 勝茂 信吉 親長 由重 尚栄 重和 信和 親貞 尚澄 親相 信乗 信言 信汎 頼載 信英 信博 九洲男 信泰 英男 弘久 輝夫
宗家 信光 竹谷 守家 守親 親善 清善 清宗 家清 忠清 清昌 清直 清当 義堯 義著 義峯 守惇 守誠 善長 清良 清倫 敬信
宗家 親忠 大給
宗家 長親 宗家 信忠 宗家 清康 広忠 家康 徳川氏
三木 信孝 重忠 忠清 断絶
鵜殿 康孝 康定 清長 清吉 清忠 清政 清次 祐義 義清 祐教 清門 義崇 義理 健三郎 鉄太郎 富次郎
福釜 親盛 親次 親俊 康親 康盛 康俊 康兆 康永 断絶
桜井 信定 清定 家次 忠正 忠吉 家広 忠頼 忠重 忠倶 忠喬 忠名 忠告 忠宝 忠誨 忠栄 忠興 忠胤 忠養
東条 義春 忠茂 家忠 忠吉 断絶
藤井
滝脇 乗清 乗遠 乗高 乗次 正貞 正勝 重信 信孝 信治 信嵩 昌信 信義 信圭 信友 信賢 信進 信書 信敏 信成 信広 信鑰 宏光 平人
形原 与副 貞副 親忠 家広 家忠 家信 康信 典信 信利 信庸 信岑 信直 信道 信彰 信志 信豪 信義 信正 信興 信美 忠正
大草 光重 親貞 昌安 昌久 三光 正親 康安 正朝 正永 断絶
五井 忠景 五井 元心 信長 忠次 景忠 伊昌 忠実 伊耀 忠益 忠明 忠根 忠寄 忠命 忠元 忠質 忠凱 弘之助
深溝 忠定 好景 伊忠 家忠 忠利 忠房 忠雄 忠俔 忠刻 忠祇 忠恕 忠馮 忠侯 忠誠 忠精 忠淳 忠愛 忠和 忠威 忠諒 忠貞
能見
長沢 親則 親益 親清 勝宗 一忠 親広 政忠 康忠 康直 松千代 忠輝 直信 昌興 親孝 親応 親芳 忠道 忠敏 忠徳
桜井松平氏飯山藩2代藩主 (1696年 - 1706年)
皆川家
堀家
佐久間家
桜井松平家
永井家
青山家
本多家
桜井松平氏掛川藩藩主 (1706年 - 1711年)
久松松平家(定勝系)
安藤家
久松松平家(定綱系)
朝倉家
青山家
桜井松平家
本多家
藤井松平家
北条家
井伊家
桜井松平家
  • 松平忠喬1706-1711
  • 摂津尼崎藩に転封
小笠原家
太田家
桜井松平氏尼崎藩初代藩主 (1711年 - 1751年)
建部家
戸田家
青山家
桜井松平家