田子池

田子池
田子池
所在地 長野県長野市若槻田子[1][2]
位置 北緯36度42分07秒 東経138度14分13秒 / 北緯36.70194度 東経138.23694度 / 36.70194; 138.23694座標: 北緯36度42分07秒 東経138度14分13秒 / 北緯36.70194度 東経138.23694度 / 36.70194; 138.23694
面積 0.0505[3] km2
淡水・汽水 淡水
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

田子池(たこいけ)は、長野県長野市にある

地理

長野市の北東部、若槻田子地区と地区との境に位置する[1]。東西方向に240メートル方向に220メートルの丸みを帯びた池で、面積は約5ヘクタールである[4]

地名の「田子」は、もともと「多湖」あるいは「多胡」と書き、かつては7から8か所のがあったと言われている[4]。人々はそれらを干拓して村落を作っていった[4]。かつての湖の跡の最深部に形成されたのが田子池であるという説もあるが、成因について詳しいことは不明である[4]

池の農業用水として用いられており、田子・吉・三才の各地区に配水される[5]江戸時代には既に農業用水として用いられており[4]、水を巡って村同士が争うこともあった[6]明治時代には田子・吉の2か村が池の所有権を巡って争った結果、3ヘクタールが田子地区、残り2ヘクタールが吉地区に所属することとなった[4]1924年大正13年)、田子池が干上がるほどの水不足を契機に田子池水利組合が結成[4]。さらに1927年昭和2年)には耕地整理組合が設立され、池の拡張工事が実施された[4]

田子池では、「長野市における“スケート発祥の地”といえるほど、さかんにスケートが行われた」[7]という。結氷した湖面が長野市民のスケートリンクとして開放され、スケート大会も開催された[8]。地元では『田子池スケート歌』が制作され、大会に出場した地元出身選手への応援歌として歌われた[1]1952年(昭和27年) - 1953年(昭和28年)にはオリンピック出場経験もあるフィギュアスケート選手の稲田悦子が当地を訪れて演技を披露したこともある[9]。しかし、暖冬の影響で湖面が結氷しにくくなり、屋内スケート場が開設されたことや、スケート以外の娯楽が増えたこともあって、田子池におけるスケートは衰退した[5]

アクセス

公共交通機関
付近に「田子」バス停が設置されている[10]長電バスによってJR北陸新幹線長野駅しなの鉄道牟礼駅上水内郡飯綱町)へ至る路線バスが運行されている[11]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 『信州の湖沼』73 - 74ページ。
  2. ^ 座標は「地理院地図(電子国土Web)」にて得た(参考値、2014年4月4日閲覧)。
  3. ^ 日本歴史地名大系 20 長野県の地名』827ページ。
  4. ^ a b c d e f g h 『信州の湖沼』74ページ。
  5. ^ a b 『信州の湖沼』74 - 75ページ。
  6. ^ 角川日本地名大辞典 20 長野県』694ページ。
  7. ^ 『信州の湖沼』73ページより引用
  8. ^ 『信州の湖沼』73、75ページ。
  9. ^ 『信州の湖沼』75ページ。
  10. ^ マピオン「田子池の地図」より(2014年4月4日閲覧)。
  11. ^ 「長電バス路線図 長野・須坂エリア」より(2014年4月4日閲覧)。

参考文献

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、日本の池に関連するカテゴリがあります。

外部リンク

信濃川水系
信濃川(千曲川)
信濃川の1次支川
魚野川の支川
破間川の支川
登川の支川
鳥居川の支川
犀川(梓川)の支川
高瀬川の支川
穂高川の支川
奈良井川の支川
浦野川の支川
  • 産川
  • 湯川 (上田市)
  • 沓掛川
  • 湯川 (青木村)
湯川 (北佐久郡)の支川
そのほかの支川
信濃川水系の放水路
新潟県
長野県
  • 神田川放水路
信濃川水系の用水路
新潟県
  • 福島江
  • 飯塚江
  • 泉島新江
  • 山東用水路
  • 芝倉沢水路
長野県
信濃川水系の天然湖沼
信濃川水系の人造湖
群馬県
新潟県
長野県
信濃川水系のため池
信濃川水系の自然景勝地
  • 岩鼻
湖・池
湧水
峡谷・渓谷
用水路としての「堰」の一覧 - カテゴリ