巴西郡

曖昧さ回避 巴西連邦共和国という中国名を持つ「ブラジル」とは異なります。

巴西郡(はせい-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢末から隋代にかけて、現在の重慶市四川省東部にまたがる地域に設置された。

概要

190年初平元年)、益州牧の劉璋が趙穎の建議を受けて巴郡を分割した。江州から臨江までの県が永寧郡となり、朐忍から魚復までの県が固陵郡となり、墊江以上の県が巴郡となった。201年(建安6年)、劉璋が永寧郡を巴郡とし、固陵郡を巴東郡とし、もとの巴郡を巴西郡とした[1]。ただしこの後漢末の三巴成立の経緯は、譙周『巴記』を引く正史の諸書に異説がみられる。

晋のとき、巴西郡は梁州に属し、閬中西充国蒼渓歧愜南充国漢昌宕渠安漢平州の9県を管轄した[2]

439年(南朝宋の元嘉16年)、巴西郡は梁州から益州に転属した。宋の巴西郡は閬中・西充国・南充国・安漢・漢昌・晋興・平州・懐帰・益昌の9県を管轄した[3]

南朝斉のとき、巴西郡は閬中・安漢・西充国・南充国・漢昌・平州・益昌・晋興・東関の9県を管轄した[4]

509年(南朝梁の天監8年)、北巴西郡南梁州が置かれた[5]。ほどなく南梁州は北巴州と改められた。西魏のとき、隆州が置かれ、北巴西郡は盤竜郡と改められた。

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、盤竜郡は隆州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、隆州は巴西郡と改称された。隋の巴西郡は閬内南部・蒼渓・南充相如西水晋城奉国儀隴大寅の10県を管轄した[6]

618年武徳元年)、が郡制を廃すると、巴西郡は隆州と再び改称された[7]

綿州巴西郡

本節では、唐代の一時期に現在の四川省綿陽市一帯に設置された巴西郡について述べる。742年(天宝元年)、綿州が巴西郡と改称された[8]758年(乾元元年)、巴西郡は綿州の称にもどされた。

脚注

  1. ^ 華陽国志』巴志
  2. ^ 晋書』地理志上
  3. ^ 宋書』州郡志四
  4. ^ 南斉書』州郡志下
  5. ^ 梁書』武帝紀中
  6. ^ 隋書』地理志上
  7. ^ 旧唐書』地理志四
  8. ^ 新唐書』地理志六
 
司隷校尉部
豫州刺史部
兗州刺史部
青州刺史部
徐州刺史部
冀州刺史部
幽州刺史部
并州刺史部
朔方刺史部
涼州刺史部
益州刺史部
荊州刺史部
揚州刺史部
交阯刺史部
 
司隷校尉部
豫州刺史部
兗州刺史部
青州刺史部
徐州刺史部
冀州刺史部
幽州刺史部
并州刺史部
涼州刺史部
益州刺史部
荊州刺史部
揚州刺史部
交州刺史部
  • カテゴリ
三国の行政区分
 
魏(咸熙2年、紀元264年)
司州
幽州
冀州
并州
青州
徐州
兗州
豫州
雍州
涼州
荊州
揚州
梁州
益州
西域長史府
晋朝の行政区分
西晋
司州
豫州
兗州
青州
徐州
冀州
幽州
平州
并州
雍州
涼州
秦州
梁州
益州
寧州
荊州
揚州
湘州
江州
広州
交州
東晋
揚州
徐州
北徐州
兗州
豫州
北青州
司州
北雍州
荊州
江州
梁州
益州
寧州
広州
交州
隋朝の行政区分
 
606年大業2年)以前(州制)
雍州地区
梁州地区
豫州地区
兗州地区
冀州地区
青州地区
徐州地区
揚州地区
荊州地区
 
607年大業3年)以後(郡制)
雍州地区
梁州地区
豫州地区
兗州地区
冀州地区
青州地区
徐州地区
揚州地区
荊州地区