1944年の産業軍

1944年の産業軍
成績
日本野球連盟4位
13勝21敗1分 勝率.382[1]
本拠地
都市 愛知県名古屋市
球場 フランチャイズ未導入
球団組織
オーナー 松根宗一
経営母体 理研工業
監督 三宅大輔
« 1943
1945 »

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1944年の産業軍(1944ねんのさんぎょうぐん)では、1944年シーズンの産業軍の動向をまとめる。

この年の産業軍は、三宅大輔が監督を1年だけ務めたシーズンである。

チーム成績

レギュラーシーズン

1944年日本野球連盟年度最終成績
順位 球団 勝率
優勝 阪神軍 27 6 2 .818 --
2位 東京巨人軍 19 14 2 .576 8.0
3位 阪急軍 19 15 1 .559 8.5
4位 産業軍 13 21 1 .382 14.5
5位 朝日軍 12 22 1 .353 15.5
6位 近畿日本軍 11 23 1 .324 16.5
春期成績
順位 球団 勝率
優勝 阪神軍 11 3 1 .786 --
東京巨人軍 11 3 1 .786
3位 阪急軍 8 7 0 .533 3.5
4位 産業軍 6 8 1 .429 5.0
5位 朝日軍 4 10 1 .286 7.0
6位 近畿日本軍 3 12 0 .200 8.5
夏期成績
順位 球団 勝率
優勝 阪神軍 16 3 1 .842 --
2位 阪急軍 11 8 1 .579 5.0
3位 東京巨人軍 8 11 1 .421 8.0
近畿日本軍 8 11 1
5位 朝日軍 8 12 0 .400 8.5
6位 産業軍 7 13 0 .350 9.5

できごと

産業軍オーナー・松根宗一(理研工業副社長)
  • 2年前の中部日本新聞社発足以降、同社社長の大島一郎が自己資金を投じて球団を存続させて来たが、資金の枯渇と戦況の悪化に見舞われて経営に行き詰ったため、球団理事の赤嶺昌志が仲介役となり理研コンツェルン傘下の理研工業に球団を預け「産業軍」に改称される。理研工業副社長の松根宗一(戦後に後楽園スタジアム会長)がオーナーとなり、選手は軍需工場での勤労奉仕を行いながら公式戦を継続した。

選手・スタッフ

 
産業軍 1944
監督
投手
捕手
内野手
外野手

[2][3]

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ “年度別成績 1944年 日本野球連盟”. 日本野球機構. 2018年9月14日閲覧。
  2. ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 107 
  3. ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。 
日本野球連盟
優勝 阪神軍 2位 東京巨人軍 3位 阪急軍
4位 産業軍 5位 朝日軍 6位 近畿日本軍
各年の中日ドラゴンズ
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。
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