金鍾泌

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金鍾泌
김종필
金鍾泌(1999年)
生年月日 (1926-01-07) 1926年1月7日
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 忠清南道扶余郡外山面盤橋里[1]
没年月日 (2018-06-23) 2018年6月23日(92歳没)
死没地 大韓民国の旗 韓国 ソウル特別市龍山区
所属政党 民主共和党→新民主共和党→民主自由党→自由民主連合   

大韓民国の旗 大韓民国国務総理
内閣 第1次金鍾泌内閣
在任期間 1971年6月4日 - 1975年12月18日
内閣 第2次金鍾泌内閣
在任期間 1998年3月3日 - 2000年1月12日
元首 朴正煕
金大中
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金鍾泌
各種表記
ハングル 김종필
漢字 金鍾泌
発音: キム・ジョンピル
日本語読み: きん しょうひつ
ローマ字 Gim Jong-pil/Kim Chong-p'il
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金 鍾泌(キム・ジョンピル、きん しょうひつ[2]1926年大正15年)1月7日 - 2018年6月23日[3])は、韓国政治家忠清南道扶余郡出身[4]本貫金海金氏キリスト教徒[5]日本名金村俊英(かねむら としひで)[6]、号は雲庭(ウンジョン、운정)。略称は「JP」。金泳三(YS)・金大中(DJ)とともに韓国政治史上に三金時代を築いた。妻は朴正煕の姪・朴栄玉(パク・ヨンオク、박영옥、朴正煕の兄の朴相煕の娘)。愛称はJPK。韓国のマスコミがJFKをもじってつけたもの。

35歳だった1961年に5・16軍事クーデターを朴正煕とともに主導し、朴正煕政権誕生の立役者となった。以降、朴正煕政権で初代中央情報部 (KCIA) 長、国務総理(首相)など要職を歴任。しかし、1970年代半ばからは家宅押収捜索など政界引退レベルの難しい時期を過ごした。1979年の朴正煕暗殺以後は議会の有力政治家に再び復帰したかったが、1980年に新たにクーデターを引き起こした新軍部によって「権力型不正蓄財者第1号」と指定され、弾圧される側となった。1984年に渡米し、1986年に帰国後、新民主共和党を結成した[7]

1990年2月、民主正義党統一民主党・新民主共和党の3党合流により発足した民主自由党の代表委員になった[7]。しかし、彼を軍部出身だと嫌悪していた民主派の金泳三派に党内権力闘争で押されて徹底した非主流となって、1995年に離党して自由民主連合を結成した。1997年には、朴正煕の最大の政敵であった金大中との連合(DJP連合(朝鮮語版))により大統領選挙での金大中の当選に貢献し、翌1998年に発足した金大中政権でふたたび国務総理を務めた。

政治姿勢は自らの主義主張を前面に出していくタイプではなく、韓国の政治家としては珍しい和を重視する調整型タイプの政治家であり、内外両面で大きく揺れた1960年代1990年代の韓国政治において内外面において重鎮として先頭に立ち問題の沈静化に積極的に動いた。国会議員も9期(第6〜10・13〜16代)を務めた[5]クーデター軍人の出身だがそれなりの民主主義の信念があり、議院内閣制を死ぬまで追求した。本人が議院内閣制であった第2共和国をクーデターで滅ぼした人であることを勘案すれば皮肉だが、このため独裁を追求した朴正煕にも牽制され、とにかく大統領制が確固たる韓国では結局自分の意を成すことができなかった。[要出典]

人物

日本訪問中の金鍾泌(1962年2月)[8]
岸信介と金鍾泌(1962年10月)

1926年1月7日、忠清南道扶余郡外山面盤橋里で生まれる。現在の扶余小学校、公州中学校、公州高校を卒業。

子供のころは、大の読書好きで、特に菊池寛の小説が好きだったという。そのことから、一時は日本の中央大学への進学を志して、1944年に単身日本へ渡ったが、日本は戦況の悪化に伴う深刻な食糧不足に苛まれており「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」と朝鮮半島へ戻り、ソウル大学へ進学したというエピソードがある[9]

首相時代から知日派として知られ、韓日議員連盟の役員を長期間務め、日韓基本条約締結に尽力するなど日韓関係の修繕良化に努めた。日韓基本条約締結の際には、反対運動を展開する学生グループと直接話し合いの場を持ち「今は過去の問題よりこれからの成長の方が重要である。そのためには日本の援助が必要だ」と説いて学生からも一目置かれたという逸話もある[10]。しかし金自身も後年のインタビューで対日請求権の放棄については「やむを得なかった」と述べている。金大中事件の際には来日し事件が起こったことに関して謝罪している。しかし真相究明に対する協力は拒否した。日本政府側は金の謝罪を受け入れ同事件の政治決着を表明した。詳しくは金大中事件を参照。

引退後の講演で「大好きな日本」と韓国の政治家としては異例の「親日」的な発言をしているが、同じ講演で日本の首相の靖国神社参拝を批判している。安易に親日・反日でくくることのできない人物である。在日韓国人問題では「二世、三世は日本国籍を取得すべきだ」と日本の保守系月刊誌である『諸君!』1980年4月号のインタビューで発言し物議を醸した事がある。同記事では「日本は原爆を落とされたからソビエトの牙城にならずに済んだ」という見解を示し、また「朝鮮民主主義人民共和国は自由とは程遠い。日本の人はもし行けば三日と持たないんじゃないか。離散家族にも会わせてもらえない」と当時の日本では異例の北朝鮮批判を行い注目を集めてもいる。青山学院大学から名誉博士号(国際政治学)の称号を授与されている。

2004年総選挙で落選後、政界を引退した。しかし、2007年大統領選挙では李明博候補支持を表明、ハンナラ党に入党し名誉顧問に就任した[11][12]2008年12月14日に頭痛の症状を訴えてソウル市内の病院に入院し、12月19日脳卒中の初期症状と発表された[13]。翌2009年3月12日に退院した[14]。2012年2月15日、ハンナラ党が党名変更して発足したセヌリ党を離党する意向を示した[15]

2015年5月、金鍾泌は学生時代に慰安婦として朝鮮の妹が強制連行されるのを直接目撃したと中央日報にて証言し、2001年に日本に訪問した際には読売新聞渡辺恒雄社長、産経新聞に抗議し朝日新聞には日本の歴史歪曲を伝えたと証言している[16]

2016年、陸軍士官学校総同窓会の「今年の誇らしい陸軍士官学校人賞」を受賞する[17]

統一教会との関連

1978年アメリカ下院による米韓関係に関する報告書(いわゆる「フレーザー委員会最終報告」)では、政治的意図をもって統一教会を組織したと名指しされている[18]

独島爆破論

大平正芳外務大臣との会談(1962年)
ディーン・ラスク国務長官との会談(1962年10月29日)

1962年10月20日と11月12日、金は大平正芳外務大臣と国交正常化に向けた会談を東京で行った。経済協力をめぐり、無償で3億ドル、長期低利借款2億ドル、さらに民間信用供与1億ドル以上との内容に合意した。この合意内容はのちに「大平・金メモ」と呼ばれた[19]

米国務省外交文書によれば、この会談で、竹島の領有権問題に関し、金鍾泌は、日本側の国際司法裁判所への付託を拒否したうえで、日本側に独島問題の解決策として独島の破壊(爆破)を提案した[20]。金鍾泌中央情報部長は、東京での池田勇人総理及び大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日のディーン・ラスク国務長官との会談において、ラスク長官が「独島は何に使われているのか」と問うたところ、金部長は「カモメが糞をしているだけ」と答え、独島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした[20]

のちに韓国国内でこの「独島爆破論」が問題視された時には、金鍾泌自由民主連合総裁は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している[21]。また2010年の朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想している[22]が、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。

来歴

  • 1926年1月7日:忠清南道扶余郡外山面盤橋里で生まれる[1]
  • 1944年:公州公立中学校(現在の公州中学校・公州高校)卒業[23]
  • 1947年:ソウル大学校師範大学教育学部修了
  • 1949年:陸軍士官学校8期卒業
  • 1950年6月:陸軍本部情報局作戦情報課北韓班長
  • 1951年:陸軍本部情報局作戦情報課長
  • 1952年10月30日:第6師団第19連隊情報参謀兼捜索中隊長[24]
  • 1958年:陸軍情報参謀部企画課長
  • 1961年:朴正煕5・16軍事クーデターを主導し、初代中央情報部長に就任
  • 1962年:日本の大平正芳外相との会談で、韓国側の対日請求権を「無償3億ドル、有償2億ドルおよび民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意に至る(金・大平メモ)
  • 1963年:陸軍准将に予備役編入して政治に参加、忠清南道扶余で第6代国会議員に当選。同年民主共和党(以下、共和党)議長に就任
  • 1968年:3選改憲反対と係わる共和党内の汚職事件ですべての公職を辞退し政界引退
  • 1971年:大統領選挙を控えて共和党副総裁で政界に復帰し、国務総理(首相)に就任(~1975年)
  • 1979年11月12日:朴正煕大統領暗殺事件により共和党総裁に推戴
  • 1980年5月18日:5・17クーデター全斗煥盧泰愚など新軍部により連行(7月2日釈放)
  • 1985年3月6日:全斗煥大統領により政治活動を解禁[25]
  • 1987年9月28日:政界復帰を宣言
  • 1987年10月30日:新民主共和党を創党。総裁と大統領候補に選出。12月16日に行われた大統領選挙では落選(3位)
  • 1990年2月8日:盧泰愚政権与党である民主正義党、金泳三が総裁である野党統一民主党と内閣制改憲に合意し、3党合同(朝鮮語版)で民主自由党を結成、最高委員就任
  • 1992年:12月の大統領選挙金泳三の当選に貢献し、民主自由党代表最高委員に就任
  • 1995年2月9日:民主自由党内世代交代論に反発、同党を脱党
  • 1995年3月30日:自由民主連合(自民連)を創党
  • 1997年:12月の第15代大統領選挙金大中・朴泰俊といわゆるDJP連合(朝鮮語版)を通じて金大中の大統領当選に貢献した
  • 1998年:新政治国民会議自民連共同政権の国務総理(首相)(~2000年)
  • 2000年:韓日議員連盟会長
  • 2001年:自民連総裁
  • 2002年:サッカーワールドカップ国会議員連盟会長などを務めた
  • 2004年:総選挙で落選し、自民連も惨敗したため[7]4月19日に政界引退を表明。
  • 2007年:12月の大統領選挙にて李明博候補への支持を表明し、ハンナラ党に入党
  • 2012年2月15日:セヌリ党(ハンナラ党が党名変更した政党)離党を表明[26]
  • 2018年6月23日 : 午前8時15分、ソウル特別市龍山区漢南洞の順天郷大学病院で死去(92歳)[27]

エピソード

  • 朴正煕とともに5・16軍事クーデターを主導し、朴正煕政権で首相などの要職を務めたが、2人の関係は必ずしも良好だったわけではなく、自らの権力を奪われることを恐れた朴正煕から常に疑われ、牽制を受けていたという[28]。パク・グンヘとも仲が良くなく、2007年保守政党大統領候補経選でもパク・グンヘと対立した李明博を支持した。
  • 兄の金鍾翊も国会議員を務めたことがある[29]
  • 長女は実業家李源万の次男と結婚したが、後に離婚した[30]
  • 自身の妻の朴栄玉(朴正煕の兄・朴相煕の娘)の義理の叔母で朴正煕大統領夫人だった陸英修朴槿恵の母)について、金はアメリカの歩兵学校に留学したときに出産した朴栄玉の食事も陸は準備しなかった。それで金はアメリカからわざわざ戻ってきて大騒ぎをして、『自分はご飯を食べておきながら、子どもを生んでお腹を空かせている産婦にそんな仕打ちをするのか』」と強く言ったのに対して陸は一言も言えなかった、金は他人に対する配慮がないと述べ、人を上辺だけを見て解釈すると百回だろうと見誤ると警告した[31]
  • 金が深く関わった日韓請求権交渉には、読売新聞の嶋元謙郎(ソウル特派員)や渡邉恒雄が、日韓政界をつなぐ仲介者として関わっていた。1962年10月、道徳再武装世界会議に出席するため金は訪日、その流れで大平正芳外相と会談したが、この訪日の口実を用意したのも彼らだった。金が宿泊する箱根のホテルで大野伴睦との会談をセットした渡邉は、金を迎えに部屋を訪ねたが、部下が迎えに来たと勘違いした金は、シャワーから出て素っ裸でドアを開けた。渡邉は開口一番こう言ったとされる、「いやあ、遅いからどうしたのかと思ってきたんだが、あなた、キンタマ大きいですね」[32]
  • 2016年11月に崔順実国政介入で下野騒ぎになった朴槿恵大統領について、朴槿恵の父・朴正煕は弱くて疑い深い人で、母である陸は慈悲深い国母というイメージがあるが、それは作られたもので実際には欲深く人の有り難みを知らない女性であり、二人の娘の朴槿恵は両親から悪いところばかりを受け継いだから我が強く頑固さがあると批判し、「私の話を全く聞こうとしない。彼女は死んでも辞任しないだろう。あの我の強さは誰にもどうしようもない」「誰が何を言っても無駄だ。5000万の国民が押し寄せて『お前なんか大統領じゃない、辞めろ!』と言っても、大統領の地位に居座るだろう。一度言い出したら誰も止められない」と述べた[33]。金鍾泌の予言どおり、朴槿恵は自ら下野することはなく、2017年3月10日に憲法裁判所の弾劾決定で大統領職を罷免され、同月31日に逮捕された。
  • 朴正煕政権、金泳三政権、金大中政権の誕生に大きく貢献し、朴正煕政権と金大中政権では首相、金泳三政権では与党の党首を務めたが、自らは大統領になることはなかった。このため、「永遠の2人士(ナンバー2)」「キングメーカー」と呼ばれた[34]。しかし、皮肉なことに、各政権のすべての終わりは良くなかった。朴正煕・金泳三政権では、事実上更迭された。金大中政権時代には、合党議論もあったが、結局金鍾泌が内部勢力の反発を制圧できなかった。金大中と決別した後、2004年総選挙落選を最後に、政界を引退した。
  • 出身地の忠清道地域(特に大田忠清南道)に強い影響力をもったことから、1980~90年代「忠清の盟主」と呼ばれた。ただし、他地域の盟主に比べてこの時から相対的に忠誠度が高くなかったため、忠清道は2000年代以降キャスティングボート化される。
  • 2015年11月に母校の公州高校で胸像の除幕が予定されたが、現職の教師、学生や公州民主団体協議会による批判が出て、全教組公州支会のアンケートによると反対する教師が圧倒的に多かったため、結局除幕式はキャンセルされ、胸像の設置は無期限延期となった[35][36]

脚注

  1. ^ a b “‘영광과 오욕의 한국현대사를 체현’···JP의 파란만장한 역사(「栄光と汚辱の韓国現代史を体現」…JPの波乱万丈な歴史)”. 京郷新聞. (2018年6月23日). http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201806231026001 2018年6月23日閲覧。 
  2. ^ “金鍾泌”. 日本大百科全書. 2022年8月6日閲覧。
  3. ^ “韓国の金鍾泌元首相が死去 92歳 日韓国交正常化の立役者”. 産経ニュース (2018年6月23日). 2020年7月21日閲覧。
  4. ^ 朝鮮人物事典263頁
  5. ^ a b “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年3月12日閲覧。
  6. ^ “추적 아무도 쓰지 않았던 金鍾泌과 일곱 형제들 이야기” (朝鮮語). 月刊朝鮮 (2010年3月26日). 2022年11月27日閲覧。
  7. ^ a b c “김종필, 전 국무총리 별세...김대중, 김영삼 전 대통령과 함께 '3김 시대'” (朝鮮語). 남도일보 (2018年6月23日). 2023年9月12日閲覧。
  8. ^ 『韓国写真ニュース』第5号、株式会社韓国写真ニュース社、1962年2月。
  9. ^ 五味洋治『あなたはどうして韓国へ来たんですか?』より。
  10. ^ 『韓国危うし』小谷豪治郎訳。
  11. ^ “BBK 수사 발표 이후 대선 후보들은?(BBK捜査発表以後大選候補たちは?)”. ハンギョレ. (2007年12月6日). http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/255300.html 2012年2月18日閲覧。 
  12. ^ “金鍾泌元自民連総裁、初の李明博候補支持遊説”. 聯合ニュース. (2007年12月10日). http://app.yonhapnews.co.kr/yna/basic/articleJapan/new_search/YIBW_showSearchArticle.aspx?contents_id=AJP20071210003400882 2012年2月18日閲覧。 
  13. ^ “김종필 전 총재 뇌졸중 증세로 입원 (金鍾泌前総裁脳卒中の症状で入院)”. ハンギョレ. (2008年12月19日). http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/328761.html 2012年2月19日閲覧。 
  14. ^ “뇌졸중 김종필 전 총재 퇴원 (脳卒中金鍾泌前総裁退院)”. ハンギョレ. (2009年3月12日). http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/343792.html 2012年2月18日閲覧。 
  15. ^ “金鍾泌氏 セヌリ党離党の意向表明”. KBSワールドラジオ. (2012年2月16日). http://rki.kbs.co.kr/japanese/news/news_Po_detail.htm?No=42574&id=Po&page=1 2012年2月18日閲覧。 
  16. ^ ““위안부 속여서 끌고가는 것 직접 봤는데 꾸며낸 일이라고?” … “사설 쓴 논설위원들 다 불러라” … JP, 와타나베 사장 호통쳤다” (韓国語). 中央日報 (中央日報). (2015年5月6日). http://article.joins.com/news/article/article.asp?total_id=17736684&ctg=1000&cloc=joongang%7Chome%7Ckeywordnews 2015年9月13日閲覧。 
  17. ^ 金鍾泌元首相「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
  18. ^ United States: Congress (1978). Investigation of Korean-American relations: report of the Subcommittee on International Organizations of the Committee on International Relations, U.S. House of Representatives. p. 118. https://archive.org/details/investigationofk00unit/page/118  internet archive
  19. ^ 服部龍二 (2009年9月10日). “大平・金鍾泌会談記録―1962年秋”. 中央大学人文科学研究所. 2023年10月15日閲覧。
  20. ^ a b 米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録。日本時事通信1996年12月28日。中央日報1996年12月29日。
  21. ^ 中央日報1996年12月29日。
  22. ^ 朝鮮日報2010年8月28日
  23. ^ “연표 김종필 전 국무총리의 92년 인생(年表 金鍾泌元首相の92年の人生)”. 京郷新聞. (2018年6月23日). http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201806231105001 2018年6月23日閲覧。 
  24. ^ “전쟁 중에 미국 유학 … 길 가득 메운 자동차 '미국의 힘' 느껴 … 1년 만에 전투 복귀 … "남편과 죽겠다" JP 찾아온 전선의 신부” (朝鮮語). 中央日報. (2015年4月13日). http://news.joins.com/article/17572824 2016年12月1日閲覧。 
  25. ^ 今日の歴史(3月6日) 聯合ニュース 2009/03/06
  26. ^ :出典:アジア経済研究所 アジア動向年報ブラウジング 大韓民国
  27. ^ 김종필 전 국무총리 별세…향년 92세
  28. ^ “疑心あるいは無視…金鍾泌-朴正煕・朴槿恵、代を引き継ぐ“愛憎関係””. ハンギョレ. (2018年6月24日). http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30937.html 2018年7月4日閲覧。 
  29. ^ “의회정치 60년, 선량들이 낳은 진기록|신동아” (朝鮮語). 신동아 (2008年8月4日). 2023年8月20日閲覧。
  30. ^ “[新 한국의 가벌] #26. 김종필·정일권·이효상 등 정계 거물과 사돈 맺어” (朝鮮語). 시사저널 (2015年5月14日). 2023年9月13日閲覧。
  31. ^ [1]「金鍾泌元首相、「朴大統領は5千万人が押し寄せても下野しないだろう」」,ハンギョレ,2016年11月15日.
  32. ^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社文庫、2003年)161頁。
  33. ^ [2]「金鍾泌氏、朴大統領は「死んでも辞任しない」」,2016年11月1日.
  34. ^ “「永遠のナンバーツー」金鍾泌元首相永眠”. ハンギョレ. (2018年6月25日). http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30945.html 2018年7月4日閲覧。 
  35. ^ “'박정희와 5.16 쿠데타' 김종필 흉상, 학교에 세워진다” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2015年11月18日). 2023年9月12日閲覧。
  36. ^ “공주고, '5·16 주역' 김종필 흉상 설치 무기한 연기” (朝鮮語). 오마이뉴스 (2015年11月19日). 2023年9月12日閲覧。
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公職
先代
白斗鎮
高建
大韓民国の旗 大韓民国国務総理
第11代:1971 - 1975
第31代:1998 - 2000
次代
崔圭夏
朴泰俊
先代
設置
大韓民国の旗 大韓民国中央情報部
初代:1961年5月20日 - 1963年1月6日
次代
金容珣
大韓民国の旗 大韓民国国務総理(1971-1975、1998-2000) 大韓民国国務総理旗
臨時政府

李承晩1919 / 李東寧1919 / 安昌浩(*)1919 / 李東輝1919-1921 / 李東寧1921 / 申圭植1921-1922 / 盧伯麟1922-1924 / 金九1924 / 李東寧1924 / 朴殷植1924-1925 / 盧伯麟1925 / 李裕弼(*)1925 / 李相龍1925-1926 / 梁起鐸1926 / 李東寧1926 / 洪震1926 / 金九1926-1927 / 1927年-1930年は役職廃止 / 金九1930- / 梁起鐸1933-1935 / 李東寧1935-1940 / 1940年-1948年は役職廃止

第一共和国

李允栄(*)1948 / 李範奭1948-1950 / 李允栄(*)1950 / 申性模(*)1950 / 白楽濬(*)1950 / 張勉1950-1952 / 許政(*)1951-1952 / 李允栄(*)1952 / 張沢相1952 / 李允栄(*)1952 / 白斗鎮(*)1952 / 李甲成(臨時)1952-1953 / 白斗鎮1953-1954 / 卞栄泰1954 / 白漢成(臨時代理)1954 / 1954年-1960年は役職廃止

第二共和国

許政1960 / 金度演(*)1960 / 張勉1960-1961

国家再建最高会議
(内閣首班)

張都暎1961 / 宋堯讃1961-1962 / 朴正煕1962 / 金顕哲1962-1963

第三共和国

崔斗善1963-1964 / 丁一権1964-1970 / 白斗鎮1970-1971 / 金鍾泌1971-1972

第四共和国

金鍾泌1972-1975 / 崔圭夏1975-1979 / 申鉉碻1979-1980 / 朴忠勲(*)1980 / 南悳祐1980-1982

第五共和国

劉彰順1982 / 金相浹1982-1983 / 陳懿鍾1983-1985 / 申秉鉉(**)1984-1985 / 盧信永1985-1987 / 李漢基(*)1987 / 金貞烈1987-1988

第六共和国
盧泰愚政権

李賢宰1988 / 姜英勲1988-1990 / 盧在鳳1990-1991 / 鄭元植1991-1992 / 玄勝鍾1992-1993

金泳三政権

黄寅性1993 / 李会昌1993-1994 / 李栄徳1994 / 李洪九1994-1995 / 李寿成1995-1997 / 高建1997-1998

金大中政権

金鍾泌1998-2000 / 朴泰俊2000 / 李憲宰(**)2000 / 李漢東2000-2002 / 張裳(*)2002 / 田允喆(**)2002 / 張大煥(*)2002 / 田允喆(**)2002 / 金碩洙2002-2003

盧武鉉政権
高建暫定政権を含む)

高建2003-2004 / 李憲宰(**)2004 / 李海瓚2004-2006 / 韓悳洙(**)2006 / 韓明淑2006-2007 / 権五奎(**)2007 / 韓悳洙2007-2008

李明博政権

韓昇洙2008-2009 / 鄭雲燦2009-2010 / 尹増鉉(*)2010 / 金滉植2010-2013

朴槿恵政権
黄教安暫定政権を含む)

鄭烘原2013-2015 / 李完九2015 / 崔炅煥(**)2015 / 黄教安2015-2017

文在寅政権

柳一鎬(**)2017 / 李洛淵2017-2020 / 丁世均2020-2021 / 洪楠基(**)2021 / 金富謙2021-2022

尹錫悦政権

秋慶鎬(**)2022 / 韓悳洙2022-

(*)は代理、(**)は権限代行。
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