藤沢哲也
レーシングドライバーの「藤澤哲也」とは別人です。 |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県大分市鶴崎 |
生年月日 | (1953-08-03) 1953年8月3日 |
没年月日 | (2024-01-09) 2024年1月9日(70歳没) |
身長 体重 | 182 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト1位 |
初出場 | 1974年10月14日 |
最終出場 | 1979年8月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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藤沢 哲也(ふじさわ てつや、1953年8月3日 - 2024年1月9日)は、大分県大分市鶴崎出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
鶴崎工業高校では、3年生時の1971年にエース、四番打者として夏の県大会に出場。県大会、中九州大会を通じ6試合に無失点を記録、55三振を奪う。甲子園出場を決めた中九州大会決勝では尾西和夫、春日祥之輔のいた中津工と対戦し、ノーヒットノーランを演じた。しかし本大会では1回戦で静岡学園に敗退[1]。この試合では制球を乱し、2イニングを投げたのみに終わった。
同年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。大型左腕として期待されたが、肩の故障もあってなかなか一軍には上がれなかった。1974年10月14日の長嶋茂雄の引退試合で一軍初登板を果たす。柴田勲、高田繁に連続本塁打を喫するが、この年三冠王の王貞治から三振を奪った[2]。中日での登板はこの1試合のみに終わり、1975年オフに西岡三四郎との交換トレードで星野秀孝と共に南海ホークスに移籍。南海でも1979年の1試合のみの登板に終わり、1980年オフに引退。
ノーワインドアップから、快速球を思い切って投げる。また外角へカーブ、シュート、内角へ速球を投げてゆさぶる投球が特徴。
社会人野球・クラブチームの大分ソーリンズ野球倶楽部で投手コーチを務めていた。また、母校の鶴崎工業高校野球部OB会会長を務めていたが、2024年1月9日に逝去[3]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1974 | 中日 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 0.2 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 | 40.50 | 7.50 |
1979 | 南海 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 |
通算:2年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 10 | 1.2 | 2 | 2 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | 16.20 | 3.00 |
記録
背番号
- 25 (1972年 - 1973年)
- 32 (1974年 - 1975年)
- 45 (1976年 - 1980年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 藤沢哲也 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)