松平真乗

 
凡例
松平真乗
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文15年(1546年
死没 天正10年3月14日(1582年4月6日
別名 源次郎[1]、左近(左近丞)[1]
戒名 梅香院殿盛巌道翁大禅定門
主君 徳川家康
氏族 大給松平家
父母 父:松平親乗、母:松平信定[1]
戸田忠重
家乗、真次
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松平 真乗(まつだいら さねのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大給松平家5代当主。

略歴

4代・松平親乗の子として誕生[1]

早くから徳川家康(又従兄にあたる)に仕える[1]。永禄12年(1569年)には遠州平定戦に参加[1]松平清宗に代わって石川家成の指揮下に入り、掛川城の守備にあたる[1]。ついで、遠江国榛原郡の小山城攻めで功績をあげ、榛原郡内で2000貫文の所領を得た[1]

その後も元亀元年(1570年)の姉川の戦い[2]、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに参加[2]。上杉謙信と徳川家康が交渉を持った際には徳川方の窓口となった[2]。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは真乗に仕える騎馬武者6名が鳶巣山砦攻撃に加わり[2]、戦後は三信国境の武節城の守備に当たった[2]天正8年(1580年)、家康が田中城攻めから帰る帰途に殿を受け持っていたが、持船城から朝比奈信置が襲撃を加えたため、真乗は石川数正とともに反撃を行って破っている[2]

天正9年(1573年)、高天神城攻めに従軍[2]福島為基ら5人を城内に潜入させた。

天正10年(1582年)に37歳で死去した。家督は長男の家乗が継いだ。

脚注

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注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻九「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.49。
  2. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻九「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.50。
蔦紋大給松平家5代当主(1577年 - 1582年)丸に釘抜紋
宗家

乗元 - 乗正 - 乗勝 - 親乗 - 真乗 - 家乗 - 乗寿 - 乗久 - 乗春 - 乗邑 - 乗祐 - 乗完 - 乗寛 - 乗全 - 乗秩 - 乗承 - 乗統 - 乗光 - 乗忠 -

分家・支流

乗政流

乗政 - 乗紀 - 乗賢 - 乗薀 - 乗保 - 乗美 - 乗喬 - 乗命 - 乗長 - 乗文 - 乗昌 -

真次流

真次 - 乗次 - 乗成 - 乗真 - 盈乗 - 乗穏 - 乗友 - 乗尹 - 乗羨 - 乗利 - 乗謨(大給恒) - 大給左 - 大給義龍 -

親清流

親清 - 近正 - 一生 - 成重 - 忠昭 - 近陳 - 近禎 - 近貞 - 近形 - 近儔 - 近義 - 近訓 - 近信 - (大給)近説 - 大給近道 - 大給近孝 - 大給近憲 - 大給近達 -