島津壮之助
島津 壮之助(しまづ そうのすけ、1872年1月17日〈明治4年12月8日〉 - 1925年〈大正14年〉1月23日)は、明治から大正期にかけての華族(男爵)。重富島津家第7代当主(越前島津家第22代当主)。
経歴
島津珍彦と島津斉彬の娘・典子の長男として生まれる。幼少時は家庭教師に就いてもらい、漢学などの学問を修業した。1910年(明治43年)6月16日、父・珍彦の死去に伴い重富島津家を相続し、同年7月25日には男爵を襲爵する。
住居は鹿児島県鹿児島市清水町田之浦。趣味は狩猟や盆栽など。[1]
栄典
- 1891年(明治24年)12月4日 - 従五位[2]
- 1902年(明治35年)12月8日 - 正五位[3]
- 1910年(明治43年)7月25日 - 男爵[4]
- 1913年(大正3年)
- 1921年(大正10年)10月20日 - 正四位[7]
家族
- 父:島津珍彦(1844 - 1910)- 島津久光の四男。貴族院男爵議員。
- 母:島津典子(1852 - 1903)- 島津斉彬の四女。
- 先妻:鶴(1880 - 1908)- 島津忠欽の四女。壮之助の父方の従妹に当たる。
- 継妻:信子(1882 - 1913)- 南部信方の長女。
- 継々妻:英子(1880 - 1952)- 佐竹義脩の長女。
脚注
日本の爵位 | ||
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先代 島津珍彦 | 男爵 (重富)島津家第2代 1910年 - 1925年 | 次代 島津忠彦 |
重富島津家第7代当主(1861年 - 1910年) | |
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宗家 | |
総州家 | |
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