協和帝

協和帝
阮朝
6代皇帝
国号 大南
王朝 阮朝
在位期間 1883年7月23日-1883年11月29日
都城 順化皇城(現フエ
姓・諱 阮福昇、阮福洪佚
諡号 なし
廟号 なし
別号 朗国公、文朗郡公
生年 (1847-11-01) 1847年11月1日
没年 (1883-11-29) 1883年11月29日(36歳没)
紹治帝
才人張氏順
陵墓 陽春下郷
元号 協和

協和帝(きょうわてい、ヒエップホアてい、Hiệp Hoà1847年11月1日紹治7年9月24日) - 1883年11月29日嗣徳36年10月30日))は、阮朝の第6代皇帝(在位:1883年7月23日 - 同年11月29日)。諱は阮福洪佚(Nguyễn Phúc Hồng Dật)、後に阮福昇(Nguyễn Phúc Thăng)と改めた。

紹治帝の第29皇子としてフエで生まれた。朗国公に叙せられていたが、嗣徳帝の後を継いだ育徳帝の後継者の地位を剥奪され、38歳で即位した。

協和帝が即位した頃は清仏戦争が依然として続いており、戦場となった国内ではフランス軍が優勢となっていた。朝廷では阮文祥尊室説陳践誠(ベトナム語版、中国語版)の3名が輔政大臣となって実権を握り、協和帝は彼らの傀儡でしかなかった。

1883年8月20日順安の戦い(ベトナム語版)でフランス軍に敗北。1883年8月25日、フランスの保護国となる癸未条約(ベトナム語版)に調印し、ベトナムの独立は失われたが、トンキン戦争(ベトナム語版)はその後も続いた。

協和帝は阮文祥・尊室説の傀儡であることを不満とし、両名を排除するため、フランスに接近しようとしたが、これを知った阮文祥は慈裕太皇太后(ベトナム語版、中国語版)紹治帝の皇后)に奏請したうえで協和帝を廃位し、陳践誠は殺害された。協和帝の在位期間はわずか4か月であった。

廃位された協和帝は王宮内の育徳学堂に幽閉され、そこで毒酒を飲むよう強制された。

次代の皇帝は、甥の建福帝である。

先代
嗣徳帝(崩御)
育徳帝(追尊)
阮朝皇帝
第6代: 1883年
次代
建福帝
大南の国旗 阮朝皇帝
広南国

僊主1558-1613 / 仏主1613-1635 / 上主1635-1648 / 賢主1648-1687 / 義主1687-1691 / 明主1691-1725 / 寧王1725-1738 / 武王1738-1765 / 定王1765-1776 / 新政王1776-1777

越南皇帝

嘉隆帝1802-1819 / 明命帝1819-1839

大南皇帝

明命帝1839-1841 / 紹治帝1841-1847 / 嗣徳帝1847-1883 / 育徳帝追尊 / 協和帝1883 / 建福帝1883-1884 / 咸宜帝1884-1885 / 同慶帝1885-1888 / 成泰帝1888-1907 / 維新帝1907-1916 / 啓定帝1916-1925 / 保大帝1925-1945

越南皇帝

保大帝1945

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