住如

住如

延宝元年10月10日 - 元文4年8月6日(旧暦)

1673年11月18日(グレゴリオ暦換算)[1] - 1739年9月8日(グレゴリオ暦)
幼名
法名 住如
院号 信順院
光澄
尊称 住如上人
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺院 西本願寺
寂如
弟子 湛如
大谷本廟
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住如(じゅうにょ)は、江戸時代中期の浄土真宗浄土真宗本願寺派第15世宗主。西本願寺住職。は光澄。院号は信順院。法印大僧正。父は左大臣九条兼晴。養父は第14世寂如。母は左大臣九条道房の子・待姫。室は寂如の娘・瑞光院如浄。第16世湛如(寂如の子)は養子。

生涯

左大臣九条兼晴、母待姫(九条道房の子)の3男として生まれる。実兄に九条輔実二条綱平がいる。幼少時に西本願寺に入寺し、貞享3年(1686年)11月13日に14歳で寂如の養子となる。

元禄2年(1689年)17歳で得度し、享保6年(1721年)には寂如の7女、常(瑞光院如浄)と結婚する。

こうして寂如の子直丸がまだ幼かったので住如が第15世を継ぐこととなったのだが、それによってこの処置に反対していた考槃院寂円・本徳寺寂宗・顕証寺寂峰らとの仲が悪くなった。しかし、享保11年(1726年)寂如の10男である直丸(第16世湛如)を養子にすることで彼らと和解した。

実父である九条兼晴の妹、つまり住如の叔母に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉御台所鷹司信子と、霊元天皇皇后中宮)・鷹司房子がいたこともあり、幕府や朝廷とは親密であった。

元文4年(1739年)8月6日に示寂。養子の湛如が第16世となる。

脚注

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  1. ^ 本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生年を用いる。

関連項目

本願寺寺基の移転と分立

東西分立前
本願寺の歴史

大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321大谷本願寺1321 - 1465 山科本願寺1483 - 1532石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585天満本願寺1585 - 1591本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立

東西分立後
(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派
東本願寺分派後
(1881) - 真宗大谷派
1988 - 浄土真宗東本願寺派

東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -

浄土真宗大谷本願寺派
本願寺文化興隆財団

⇒ 本山本願寺(山科区上花山)1996 -

本願寺(京都市右京区)

⇒ (嵯峨)本願寺2005 -

東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。

本願寺歴代

東西分立前

(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) 教如) - (1603年 本願寺の東西分立

東西分立後
西本願寺

西12 准如 - 西13 良如 - 西14 寂如 - 西15 住如 - 西16 湛如 - 西17 法如 - 西18 文如 - 西19 本如 - 西20 広如 - 西21 明如 - 西22 鏡如 - 西23 勝如 - *西24即如 - 西25大谷光淳(専如) -

東本願寺

東12 教如 - 東13 宣如 - 東14 如 - 東15 常如 - 東16 一如 - 東17 真如 - 東18 従如 - 東19 乗如 - 東20 達如 - 東21 嚴如 - 東22 現如 - 東23 彰如 - 東24 闡如東本願寺分派

東本願寺分派後
真宗本廟(東本願寺)
浄土真宗東本願寺派本山東本願寺

東本25 興如 - 東本26大谷光見(聞如) -

­本山本願寺(浄土真宗大谷本願寺派)[1]

東山25 大谷暢順(經如)[2] -

(嵯峨)本願寺
略称 - 「西」=本願寺派、「」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺


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