五紀暦

五紀暦(ごきれき)は、中国暦の一つで、かつて中国日本などで使われていた太陰太陽暦暦法である。

中国のの天文学者の郭献之が編纂した暦法である。中国では、宝応元年(762年)から建中4年(783年)までの22年間用いられた。ただし、この改暦は安史の乱後に衰微した唐王朝の権威再建を図る代宗によって強引に進められたものとされ、実際には大衍暦で採用された天文定数をその前の麟徳暦(日本における「儀鳳暦」)の形式に改めただけとされている。

そのため、日本では天応元年(781年)に一度は改暦が検討されたものの、実施には至らなかった(『類聚三代格』所収・貞観3年6月18日太政官符)。天安2年(858年)から貞観3年(861年)までの4年間、それまで使われていた大衍暦と併用された。これはこの前年に暦博士大春日真野麻呂の提案によって行われた大衍暦を改暦する前の試用であった(『日本文徳天皇実録』)が、試用開始の翌年に渤海使宣明暦を請来する[1]と、真野麻呂は宣明暦の採用を主張するようになった[2]。貞観4年(863年)に真野麻呂の主導によって宣明暦が導入され、五紀暦が単独で用いられることはなかった。

脚注

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  1. ^ 天応の改元検討から宣明暦改暦までに2回遣唐使が派遣されており、五紀暦が廃された情報は知られていた可能性が高いものの、新暦(宣明暦)の暦法理論が入ったのはこの時が初めてであったとみられる。実際、承和の遣唐使の際に新暦を学ばせる予定であった留学生が逃亡して結果的に佐渡への流刑になっていることが『続日本後紀』承和6年3月16日条に記されているからである(湯浅吉美 2015, p. 186)。
  2. ^ 湯浅吉美は藤原良房が孫である清和天皇即位直後の貞観2年(860年)に朔旦冬至が来るように暦法に反する修正を命じた(『日本三代実録』貞観2年閏10月23日・25日条)ことに真野麻呂が憤慨して、強引な修正で朔や節気が破綻したことを理由に折しも渤海使がもたらした新暦(宣明暦)への改暦を迫り良房もこれを受け入れざるを得なかったと推測している。

参考文献

  • 細井浩志『古代の天文異変と史書』吉川弘文館、2007年9月。ISBN 978-4-642-02462-4。 
  • 湯浅吉美「五紀暦併用と宣明暦採用に関する一考察」『法制と社会の古代史』慶應義塾大学出版会、2015年5月。ISBN 978-4-7664-2230-6。 
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中国暦宝応元年(762年)-建中4年(783年))
紀元前→後漢 古六暦
?-?
顓頊暦
?-BC105
太初暦
BC104-4
三統暦
5-84
後漢→魏 四分暦
85-236
景初暦
237-444
魏→南朝 元嘉暦
445-509
大明暦
510-589
 
四分暦
222
乾象暦
223-280
北朝 景初暦
398-451
玄始暦
412-522
正光暦
523-565
興和暦
540-550
天保暦
551-577
天和暦
566-578
四分暦
221-263
 
北朝→隋 大象暦
579-583
開皇暦
584-596
大業暦
597-618
戊寅元暦
619-664
麟徳暦
665-728
大衍暦
729-761
五紀暦
762-783
正元暦
784-806
観象暦
807-821
宣明暦
822-892
 
唐→後周 崇玄暦
893-955
後周、北宋、南宋 欽天暦
956-963
応天暦
963-981
乾元暦
981-1001
儀天暦
1001-1023
崇天暦
1024-1065
明天暦
1065-1068
崇天暦
1068-1075
奉元暦
1075-1093
観天暦
1094-1102
占天暦
1103-1105
紀元暦
1106-1135
後晋、遼 調元暦
893-943?
961-993
大明暦
994-1125
 
南宋 統元暦
1136-1167
乾道暦
1168-1176
淳熙暦
1177-1190
会元暦
1191-1198
統天暦
1199-1207
開禧暦
1208-1251
淳祐暦
1252
会天暦
1253-1270
成天暦
1271-1276
元以降 重修大明暦
1182-1280
授時暦
1281-1644
時憲暦
1645-1911
グレゴリオ暦
1912-
大明暦
1137-1181
和暦(天安2年(858年) - 貞観3年(861年))
  1. ^ 併用